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シャープ創業者も鴻海創業者も日本人の冷酷さを証言

郭台銘氏は、シャープ会長の片山幹雄氏に、
次のような逸話を披露して「変わろう」と呼びかけたといいます。

私(郭台銘氏)の母は山東省青島市で育ちました。目立った戦闘がなかった青島市では、母も日本人も仲良く同じ集合住宅で暮らしていたのですが、日本の憲兵隊は横暴だった。
憲兵隊はあるオーナー企業家の財産を寄贈という名の下で没収するばかりか、その際に戦争で死なずに済んでいた、たった一人の幼い子供を殺したそうです。

母が感心したのは、そんな憲兵隊にいた日本人の変化です。彼らは敗戦の翌日、軍服を脱ぎ、記章を取り外して、青島市の街や下水道を丁寧に掃除しました。
彼らは卑屈になったからそうしたのではありません。居丈高(いけだか)でいられた原因を理解し、すぐに合理的な行動(掃除によって地域に尽くす)を採ったのです。

日本人はブライドに固執せず、状況の変化に大胆に応じられる。母は、自分が6歳の時(56年前)こう日本人の素晴らしさを教えてくれました。
こうした柔軟性は「人を騙さない」ことと並んで、私が日本人を好きな理由になっています。

http://www.nikkei.com/article/DGXBZO43276700S2A700C1000000/

早川徳次(シャープ創業者)

当時、亀戸のほうに第三工場にするつもりで五軒の長屋を買ってあり、四軒は空屋にしてあった。そこが無事なのがわかって、
私たちは移った。日が経つにつれて離散していた従業員たちが続々やってきて、いちじは七十人ほどの大家族になってしまった。
朝鮮人の従業員の一人の李さんも訪ねてきた。そこへ例の朝鮮人に関する流言飛語である。町内の連中がきて、
朝鮮人はいますか。いたら殺してしまう」
という。私は「いません」といってウソをついた。何も悪いことをしていない人をつき出すわけにはいかない。
しかし、かくまっているとただではおかないという風評が伝わってきて家族の者たちが動揺し出した。私は固く口止めをして、
李さんを押し入れの中にかくまい、三度の食事を自分で運んだ。
(中略)
町で実際に朝鮮人が殺されるところを目撃したこともあった。歩きながら殺されていった。いきなり後ろから頭を割られ、
それでも歩いていて、ついに倒れると背中やお腹を金属の棒で突いているのである。こっちに力がないから止めることができず、
もし止めようとすればこちらが殺られてしまっていただろう。

早川徳次「妻も子も事業も奪われて」『潮』1974年10月号)


解説◎
家電メーカー「シャープ」の創業者である早川徳次[1893‐1980]の証言である。早川は当時30歳。いわゆるシャープペンシ
ルを開発し、墨田区に工場をもって事業を展開していたが、関東大震災で全焼した。震災で二人の子どもを失い、
2年後には妻も病で亡くなった。早川は震災後、大阪に移り、新事業に乗り出して家電メーカーとしてのシャープを発展させていった。
ちなみに早川がかくまった「李さん」はその後、朝鮮に帰って弁護士になったそうである。
「昭和十五年、私の満州の店で、劇的な再会をしたことがある」と早川は書いている。

早川徳次「妻も子も事業も奪われて」『潮』1974年10月号)

http://1923archives.blogspot.jp/2015/12/blog-post_15.html